サガエメラルドビヨンド
シウグナスと綱紀
御堂綱紀などという男は、初めからこの世に存在しなかった。では何者ですら無い自分という人間、その生を許容し得る世界は果たして、数多ある連接世界のいずこかには存在するのだろうか。だが、残念ながら導き出した結論は何も変わらない。そんな都合の良い幸運はどこにも落ちてなどいない。どこにも。
***
己を導く翠の糸、そのどれからも背を向けて、自分は夢中でミヤコ市内の日の当たる場所から逃れるように走り続けた。人通りを避け、より濃い影の落ちる裏路地をがむしゃらに左へ右へと曲がり進む。やがて頭上の空は焼けて夕刻を過ぎ、そして夜が訪れた。
現代社会の例に漏れず、ミヤコ市にも近代化の影響はいたるところに見受けられる。が、古き伝統をも今なお守ろうとするこの都市には、他の地方とは毛色が違う、独特の様式美が存在する。あくまで景観を損なわないよう控えめに置かれた街灯は、そのどれもが想像よりもずっと薄暗く、自分はそのことに不思議なほど安堵した。
あくまで人の気配が無いことを念入りに確認してから、自分は古ぼけた小さな鳥居を潜った。茂る草木の合間から、鈴虫の鳴く音が絶えず聞こえてくる。現在の正確な時間を知るため、服のポケットに突っ込んだままだったスマートフォンを取り出せば、画面に表示された日付はとっくに一日を跨いでいた。簡素なデジタル時計の下部分、残る画面の余白全てを埋め尽くすあらゆる通知を無感情に一瞥して、自分はもう用は済んだとばかりに、手にした端末を手水舎の清水の中に沈めた。今さら神を祀る作法を一つや二つ破ったところで、これ以上この身に下る罰は増えやしないだろう。
自分は静かにくすんだ石畳の上を歩いて行く。しかしいくら奥へと進めども、変わらずそこにあるのは重たい孤独だけだった。ここにはもう何も無い。否、ここではないどこへ行こうと、何も無い。翠の波動に従わず逆らう、敢えての選択を取るというのは、つまりは徒労ということだ。己が与えられた役割に殉ずるならば、自分はこんな寂しい社にではなく、一刻も早く天乃岩戸へと向かうべきなのだ。
だが、そうしなかった。拝殿の前まで来た自分は手頃な段差に腰を下ろし、それから肺の中身を空っぽにするかのように、ひときわ大きな息を吐き出した。冷たい夜風が肌を撫で、身体の体温を幾ばくか下げる。本来ならば厳かな神の宿る神聖なその場所で、しかし自分はただ暗澹たる思いのまま、頭上からほど遠い欠けた月を見上げた。
ああ、なんてくだらない喜劇だったのだろう。御堂綱紀という、しょせん全てが紛い物の男の人生は。
己にとって翠の波動という力は、無限に広がる可能性の示唆だと思っていた。他者には決して知覚出来ないその糸を、何故か御堂綱紀だけははっきりと捉える事が叶った。ぼんやりと輪郭の歪んだ未来を点を置くように予測する半端なその力に、自分自身が振り回される日も多々あった。だがやがて、その翠をもっと上手く手繰る術を身に付けられさえすれば、自身の周囲にあるより大きなものを守れると、ひたむきにそう信じてここまでやってきた。
実際、都の守護を司る御堂の家系に連なる人間として、己の持つ特別な力はこれ以上なく優位に働いた。まだ幼少であった頃、御堂家本堂の屋敷の奥深くで天井に吊るされた無数のクグツ達を見たとき、自分にはいとも容易く高潔な魂が宿るだろう人形を言い当てる事が出来た。驚きを隠せない両親の横で、自分はただ無邪気に新しい友人が増えたと喜び、彼らに再び望みの名を与えた。それからそう遠くない年月の間に、御堂本家から正式に当代のクグツ使いとして家業に励むよう拝命された。今にして思えば、ムサシ達の存在は己にとって救いの象徴であり、同時にかけがえのない彼らはみな、自身の良き理解者であったと言える。なぜならクグツを操る翠の糸の束を、彼らは目覚めて例え一度たりとも、阻んで途切れさせようとはしなかった。ある意味で両親よりも厳しく、それでいて優しい、自分というこの世界の異物を恐怖するどころか、主と認めてくれたクグツ達。だがその彼らも、今はもういない。唯一彼らに生を宿せる御堂綱紀という男が消えたのだから、それもまた当然の事だ。ぴくりとも動かない、物言わぬただの人形に戻った彼らを思うと、ほんの少しだけ己の心がさざなみ立った気がした。だが、それもきっと気のせいだ。何も持たない男に、人並みの感情などあるわけもない。それこそ、このミヤコ市という閉じた一世界における本当の傀儡は他ならぬ、己自身だったのだから。
もう何も分からなかった。自分は誰なのか。何のために生きているのか。あるいは生かされているだけなのか。
本来ならば、数多の連接世界を頑なに拒み続けた強力な結界の要たる黄龍を討った時点で、自分もまた死ぬ定めだったのだろう。高位の呪詛返しと同等とも呼べる禁忌のツケを、この身で正しく清算しなければならないはずだった。だというのに、何の因果か今も自分はこうして息をしている。全てを失ったはずのこの心臓が、まだ正常に鼓動する。それが何より怖かった。まだ何かを奪い取られる、そんなふうな気がして。
そろそろ、この辺りでいいだろう。青く冷たく月光りの下に立ち、自分はその生の終わりを一心に願う。
己を形作るその全てが嘘だった。護りたいと必死に手を伸ばしたものは、結局ろくに触れることすら叶わぬまま。その無力感はこのミヤコ市を時折包む朝の霞を決して掴めぬ感覚によく似ていた。
ふと思い出し、自分はスマートフォンの入っていた側とは逆のポケットに手を差し入れた。今の己に残った最後の運か、黄龍を下した小刀はまだこの掌の中にある。この終着もまた、一つの翠の導きと言えるだろう。微かに震える指でゆっくりと鞘を抜き、自分はその鋭い刃を首筋にぴたりと当てた。
「……ようやく見つけたぞ、闇深き者よ」
不意に背後から声をかけられ、咄嗟に握っていた小刀を構える。誰の気配も完全に無かったその場所から、まるで伸びる影のように急に現れた男は、この世在らざるほどに美しい容貌をしていた。それこそ、彼が自分と同じ人間とは到底思えぬ程度には。
「……俺に何か用か?」
刺すような警戒心をそのままに短く問えば、しかし相手は気分を害した様子もなく滔々と述べる。
「私は吸血鬼、あらゆる闇を統べる王。興味深い闇を求めて翠の導きのままこの社を訪れてみれば、そこにお前が居た。どうせ捨てるつもりの命ならば、私と来い。死ぬのはそのあとでも構わぬだろう」
「何を勝手なことを……」
「……だが、お前は必ず我が命に従う。なぜならそれがお前の真の望みであるからだ」
誰かに止めて欲しかったのだろう。実につまらなさそうにそう告げられ、自分は愕然とする。それが単なるでまかせではなく真実であることは、他ならぬ己自身が一番よく分かっていた。
「っ、なんで……!」
なぜ今頃になって、他ならぬ翠の波動が自分を救おうとするのだ。すでに取り返しのつかない場所まで己を追い立てた、この憎らしい、細く長い糸が。
動揺するこちらの姿など一切気にも留めず、闇の王を名乗る男はすたすたと傍らまで歩いて来て、無理やりに視線が合うよう自分の顎を持ち上げた。互いの吐息すら届きそうな距離で己を無遠慮に覗き込む双眸は血のように紅く、やはり男が万魔の類いなのだと知れる。相手の言葉通りに受け取るなら、吸血鬼という事だが。
「……随分と贅沢な奴だ。闇の王たるこの私が同じ者に二度命じるなど、我が世界であれば最上の名誉と心得よ」
眼前で妖しく光る瞳を眺めていると、次第に思考が柔らかに蕩けていく。目を逸らさなければと思うのに、不思議と身体が抗えない。このまま男の術中にまんまと嵌る恐怖より、この都を閉じる蓋を開けてからというもの、一度も止まらなかった焦燥がようやく停止する、その安堵の方にばかり心を傾けてしまう。
「教えよ、お前の名は?」
そんなものは自分の方が知りたかった。もはや答えの存在しない問いに、けれども己は熱に浮かされたようにすんなりと答えることが出来た。
「……つなのり、です。御堂、綱紀」
「そうか、綱紀。では、お前は私と共に来い。……この場はいささか、人の身には冷えるのでな」
かろうじて握っていた右手の中の小刀が、その一言で地面の上にあっけなく転げ落ちた。まるで恋仲であるかのように肩を抱かれ、このまま男が目指す先は神社の鳥居のさらに外、天乃岩戸が天上と定めた向こう側の世界なのだろう。己の視界に未だ変わらず映る翠の線、それと全く同じものを、この男はきっと視ている。
捨てる神あれば、拾う神あり。いつかのクグツ達が使っていたことわざを思い出して、自分は気の抜けたように笑った。幸運とはそこらに適当に落ちているものではなく、示し合わせ惹き寄せられるものなのだと。
御堂綱紀はいまそれを正しく理解して、そして声も出さずに静かに泣いた。己にとっての唯一の幸いは、すぐ隣を行く闇の王が、寛大にもそれらの醜聞に見て見ぬふりを貫いた事だった。
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