岩戸に潜む、天照す君よ





 我と来い、それがお前の運命だ。
 いかにも情熱的な台詞とともに眼前へと差し出されたその手を、しかし自分は決して取ろうとはしなかった。こちらのすげない反応に、しかし闇の王は特に気を悪くした様子もなく、存外あっさりとその身を引いた。
 そうか。ならば今とは言わぬ、また来よう。
 短くそう告げてすっかり興味が失せたとばかりに踵を返し、さっさと聖堂へと向かう、その足取りには迷いが無かった。想像よりずっと呆気ない幕引きだが、現実とは案外こんなものなのだろう。まさしく人の出会いは一期一会。翠の線が導いたこの不思議な邂逅も、もはやこれまでということだ。
 自分はそれ以上何も言わずに、ミヤコ市から去って行く異界の旅人をただ静かに見送る。天乃岩戸はこうして気まぐれにその重い扉を開いては、人知れずまた閉じる。他の誰もが認知せずとも、それでも自分だけはその出入りに注意を払う必要があった。
 何しろ、この都をあらゆる邪気から護る結界は、つい先日、己自身の手で新たに張り直したばかりだ。あちこちに予期せぬ揺らぎが生じやすい不安定な状況にある今こそ、常に警戒はしておくに越した事はない。
 たとえ全てが偽りから始まった物語なのだとしても、それでも。自分は御堂綱紀、このミヤコ市を霊的に陰から守護する、御堂家当代のクグツ使いだ。
「……どうかお元気で、闇の王さん」
 無自覚のまま零すようにそう呟いて、大学生ひとりが住むにはずいぶん広い屋敷へ向かって、自身もまた帰路につく。古都を巡る四季は秋。色づく紅葉も儚く散りゆく、それは別れの季節だった。
 そのときの綱紀は天乃岩戸の外側へと旅立ったかの貴公子の再訪を、かけらも信じていなかった。そう本当に、ほんの露ほども。



「さて、今度こそ覚悟は決まったか?」
 だからこうして宣言通り、再びミヤコ市へと舞い戻ったかの王を前にして、自分はずいぶんと間抜けな顔を晒す羽目になった。
 季節は変わらず秋。以前と違って変化したのは、ちょうど一年という歳月だけである。
「……いやまさか、ほんまにまた来はるとは」
「ふむ。いかにも驚くその様子、もしや待たせてしまったか」
 全くの逆だ。彼に会う日はもう二度と来ないと、本気でそう思い込んでいた。
 近所で暮らす人間すら、そうやすやすとは近寄らない御堂の大屋敷の敷地を、しかし自信に満ち溢れるかの吸血鬼はいとも容易く跨いでみせた。律儀にも異世界のマナーに則り、門扉の横のチャイムを押して白昼堂々と現れた彼は、一体どこで調達したのか、黒を基調とした羽織袴姿を悠々と着こなしている。伴連れだろうひときわ視線の鋭い男に番傘を差させて、涼しげなその佇まいはまさしく、人の上に立つことに慣れた為政者のそれだった。
 まるで映画の撮影現場にでも居合わせたかのような派手な絵面に微かに頭痛を覚えながら、綱紀は長い逡巡の末に言う。
「……まあ、こんな所で立ち話も何でしょう。とりあえず、中へどうぞ」
 突然の来客に対し、けれどそう咄嗟に相手を追い返す上手い手立てが思い浮かぶわけでもなかった。玄関奥へと繋がる通路の道を素直に開けば、しかし予想に反して家内にまで入って来たのは、闇の王ただひとりだけだ。
「番は任せたぞ、人斬」
「……ああ」
 照りつける秋の陽射しを翳す大きな傘を畳み、ただ黙して主人の用事が済むのをその場で待つ姿は、さしずめ屋敷の入り口を守る忠実な門番といったところか。主命にのみ付き従う寡黙な姿勢をすぐ傍らで眺めていると、どうにも自身のよく知る仲間をふいに連想させ、不思議な親しみを感じてしまう。
 綱紀はその場に残るつもりらしい長躯の男に義を感じ取り、軽い会釈をした。すると仮面で素顔を覆った男から自然と返された短い礼が、本来どれほど特別な意味を持つのか。人斬と呼ばれた男にとっての仁義の価値を自分が正しく知るのは、まだ当分先の話である。

「……それで? お前はまだ我と共に行く道を、己の心だけでは決められぬと申すのか」
 きちんと客間に通すつもりが、どうやらこの珍客は使い古されたリビングチェアを気に入ったらしい。まるで自身のため用意された玉座のごとくそこに座り、当然といった様子で一歩も動こうとしない闇の王の振る舞いを前に、先に折れたのは綱紀の方だった。仕方無くテーブルを挟んだ向かい側の椅子に腰を下ろすと、自分は誠心誠意、再度このミヤコ市の置かれた状況について説明する。
「外界から悪意をもって齎される怪異の数々を都から遠ざける。誰に何と言われようと、このミヤコ市を護ること、それこそがオレの果たすべき大切な務めなんです。あなたも王なら、国を守護するお役目の重要性のほどは分かるでしょう?」
「……確かに君の話は理屈が通る。が、なにゆえ私がこの都の守りなど憂慮しなければならない?」
「そうは言うけど、あのね闇の王さん」
「許す、我の事はシウグナスと呼べ」
「……シウグナスさん」
「なんだ?」
 いっそわざとではないかと思えるほど我儘だらけの問答を繰り返して、それからふと、シウグナスは綱紀の瞳を深く覗き込んだ。何度見ても端正な顔立ちだと思いながら、しかし自分は抱いた感想とは全く異なる台詞を口にしていた。
「……もしかして今、あの不思議な力を使ってはります? なら、時間の無駄やし止めた方がええですよ。おそらく八条の姫さんとはまた違った意味で、オレと闇の王さんの相性はすこぶる悪いと思うんで」
 シウグナスの舐めるような視線を至近距離で受けてなお、綱紀は平然と言った。実際、彼の妖しく光る眼をいくら直視しようと、この身にそれらしい変化は何一つ起こらない。翠色の眼を持つ、天界ゆかりの存在に共通するだろう、規律を尊ぶ心。あるいは、世の理の為なら己が殉ずることも厭わない、いわば潔癖とも呼べる真白な精神性。それらの資質は人の我欲を深層から引き出す彼の闇を操る力と、おそらくは根本から対立するのだろう。未だ少ない接点から綱紀が導き出した推論は、けれどもやがて眼前の王が小さな溜息を吐いたことで確信へと変わった。
「……口惜しいが、どうやらそのようだ。吸血鬼の魅了術が効かぬ人間に、こうも続けて出くわすとは。このミヤコという土地には、つくづく手を焼かされる」
 闇の王は忌々しげにそう言うが、しかし口にした台詞に反して、彼はどこか愉しげですらあった。場の空気が少しばかり緩むのをちょうど待っていたかのように、気を利かせたコマチが冷たい緑茶を盆に乗せて運んでくる。慣れた手付きで硝子のコップを掴み、冷茶の爽やかな苦味で舌を潤す眼前の吸血鬼を見ていると、どうにもこちらの調子ばかりが狂う。
「……闇の王さん、いや、シウグナスさんは、なんでオレなんかにそこまで固執しはるんです?」
 からん、と容器の中の氷が高い音を立てる。他愛のない自然音が随分大きく聞こえた気がするのは、部屋に再び張り巡らされた微かな緊張感のせいだろうか。シウグナスの人を見つめるにはいささか温度の低い視線が、綱紀の身体を硬い杭のように刺し貫く。彼の冷ややかなその双眸が自分のなかに存在する、いったい何を捉えているのかは分からない。ただ一つ言えるのは、闇の王が綱紀の内側にある、その本人すら知り得ない形無きものに、よほど大きな価値を見出しているという事だ。まじまじと探るような目を向けられてなお、シウグナスは寛大にも腹を立てた素ぶりすら見せない。
「……今は私自身の事より、むしろ君の話を聞かせてほしいものだが」
 一旦わざと言葉を区切っただろう彼の唇が、いかにも嗜虐的な弧のかたちに歪む。さも愉快そうに細められた紅い瞳の奥には露骨な悪意と好奇心、その両方ともが剥き出しのまま入り混じっている。
「私が以前の旅でこの古都を訪れたとき、君は何度も誇らしげに己の家業とそれに連なる大切な家族の話をしてくれた。だというのに、見たところどうやら今はこの大きな屋敷に、君たったひとりで住んでいるようだ。 ……ああ失礼、頼りになる人形達も一緒のようだが」
「……やけに冗長な言い回しですね、何が言いたいんです?」
「いやなに、あれほど守りたいと願った家族に簡単に使い捨てられ、それでもなお、この世界の為に懸命に奉仕しようとする君のその愚直さが、私にはまるで聖人のように思えてね。本当に立派なことだ、もはやその高潔な志に報いてくれる相手すらいないというのに」
 眼前の男の口から発せられたあからさまな侮蔑の発言の数々に、綱紀は眉を顰める。沸いた怒りから無意識に己の両拳を強く握り締め、そのまま、苦い口調で言う。
「……帰ってください」
「ほう?」
「もう二度と、オレの前に現れんでくれ」
「……それを決めるのは君ではなく、私だ」
「っ、あんた……!」
「馳走になったな、また来よう」
 優美な仕草を少しも崩さぬまま、玄関へと向かう闇の王の足取りを、綱紀は険しい目で追いかける。彼は欠片も悪びれぬ様子で廊下を真っ直ぐに歩いて行き、しかし敷居の外を跨ぐ寸前、急にくるりとこちらを振り返った。
「……白状しよう。私が君に目を掛けるのは、今の君の有り様が以前の私自身の姿とひどく重なるからだ」
 シウグナスは帯に差した自身の瞳の色によく似た赤の扇子を広げて、口元を隠した。そしてなおも溢すように話を続ける。
「何処を幾ら旅しようと所詮、王の帰るべき場所は玉座ただひとつのみ。長らく私もそう考えていた。だが……」
 玄関の戸が横向きに開かれ、秋の陽射しが屋外から内側へと一様に入り込む。ちょうど逆光であるせいで、この位置からでは闇の王が浮かべているだろう今の表情を窺い知ることは叶わない。
「……御堂綱紀、私がそうであったように、君もまたこの世界における王なのだろう。なればこそ、私は今とは全く異なる新たな道を、君の前に提示する事が出来る。 ……君に自ら玉座を捨てる、その覚悟があるならばの話だが」
 まるで預言を授けるかのようにそう告げると、今度こそ彼は振り返ることなく屋敷を後にした。かの吸血鬼の言葉にはいずれも、繊細な心の奥にまで深々と突き刺さる鋭さがある。けれどもそれ以上に、指摘のどれもが反論を返せないほどに正しかった。伴の男が横戸を完全に閉じてからも、綱紀はしばらくの間その場に縫い付けられでもしたように、そこから一歩も動く事が出来なかった。どれほど残酷な意図がそこに含まれていようと、シウグナスの話した全ては紛れもない事実である。

「……綱紀」
 やがて、来客の折に一度たりとも言葉を挟まなかったムサシが、ふいにその口を開いた。
「あの妖の者、彼奴の腹の底はそう簡単には読めぬ。だがこの縁は存外、お前にとっての吉兆となるかも知れぬぞ」
 武芸が人の道を拓く頃より、欠かさず研鑽を積んできたムサシの言葉には、どこか確信めいた響きがあった。けれども今この場における彼の言う吉兆とはすなわち、綱紀が固い覚悟で護ると誓ったこの都を捨てる、その選択肢において他ならない。どんなときだろうと、ムサシにこちらを傷付けるような意図などあるはずが無い。そう頭では強く理解しているのに、それでも何故か今だけは、己の立てた決意を彼に手酷く裏切られた、そんな気がしてしまった。
「っ、なんでムサシ達まで向こうの肩を持つんや! このミヤコ市を守護するんは、そもそも自分以外におらんやろ!」
「綱紀、我らは……」
「それともあれか? やっぱりみんなも、自分である必要は無いって言いたいんか? オレがっ、御堂綱紀はお役目を果たすのに、特別選ばれたわけではないと……っ、役不足なんやと!」
「っ、綱紀っ!」
「ええ! もうええ! ご機嫌取りの言葉なんか、一言も聞きたない!」
 たとえ彼らが木で彫られた人形だろうと、その能面の顔には十分過ぎるほど人の感情が宿っていることを、他ならぬ綱紀だけはよく理解している。分かっているからこそ、余計につらく感じてしまう。己の主の今後の未来を純粋に案じた彼らが、綱紀の為を思えばこそ、ミヤコ市から旅立つべきだと進言するその現実が。御堂綱紀という男は、このミヤコ市にもう必要無い。そんなふうに婉曲して言葉を捉えてしまう自分自身の未熟さが何より、堪らず身体が震えるほどに惨めでならなかった。
「待つのだ、綱紀っ!」
 主の身を案じる制止の呼び声に追い立てられるようにして、勢いよく屋敷を飛び出す。冬を目前にした秋風は想像よりもずっと冷たく、綱紀の身体からみるみる体温を奪っていく。
 父さん! お母様! 倫子!
 大声で助けを求めたい存在は確かにあるのに、同じ家族であったはずの彼らの名を口に出して呼ぶことすら、今の綱紀には固く禁じられている。誰に定められたわけでもない、己自身のためにもこのミヤコ市で為すべきを為す。そうすると決めたのは他ならぬ自分であるのに、どうしてだか今、綱紀は全てを放り出して泣き叫びたい気持ちでいっぱいだった。それほどまでに今の自分は孤独だった。そう、孤独であったのだ。




***




 綱紀が駅前の売店で黒ずくめの男と再会したのは、全くの偶然だった。男は憔悴した様子のこちらを無言で一瞥すると、そのまま手持ちの小銭を払ってペットボトルの茶を一本買い、それをぶっきらぼうに手渡して寄越した。いかにも不器用そうに見える彼に、必要以上の気を遣わせたことはあまりに明白だった。綱紀はすごすごとボトルを受け取るとその蓋を開け、中の液体を黙って喉の奥まで注ぐ。コマチの淹れた緑茶に比べれば、それはいかにも安い味わいだった。だがだからこそ、かえって頭が冷静になったのもまた事実である。
「……おおきに」
「ああ」
 男は彼自身の主人と違って、よくよく寡黙であった。が、綱紀はその重たい沈黙がそう嫌いではなかった。互いの身に接点が少ない間柄であるからこそ、思い切って口に出来る話題もある。綱紀は己の胸中で渦巻く昏い思いを吐き出すように、ゆっくりと呟いた。
「……このミヤコ市には昔から、結構な頻度で不思議な事が起こるんです。その現象のなかには勿論良いものもあれば、逆に酷く邪悪なものもある。人の常識を遥かに超える、そういった怪異を人知れず陰から鎮めてきたんが御堂家、つまり自分の家系やった」
「……知っている」
「え……」
「時代がどれだけ移り変わろうと、この都を治めるのは御堂……帝の血筋だ」
「……そうか、あなたも同郷の人やったんですね」
「……おそらく、身分には天と地ほどの差があるだろうがな」
 自らを人斬と名乗ったその男は、まるで小雨でも降るかのように、ぽつぽつと言葉を話した。かつてこの古都で妖人を斬る生業についていたこと。さらに死後、いつからか別の世界で刀を握り、終わり無くその刃を振るっていたこと。そして闇の王、シウグナスとの出会いによって己の在り方を再定義し、第二の生を歩むに至ったことも。
「……あの男が人に仇なす万魔の類いであるのは違いない。だが奴の口車にまんまと乗せられたあと、不思議とこの胸がすいたのも事実だ」
 男は話をそこで一度区切ると、己の顔を覆い隠す黒い仮面にそっと手を付けた。ある種、厳かな儀式にも似た静けさを前にして、綱紀もまた背筋を正す。やがて現れた男の素顔は精悍ながら、想像よりもずっと整っていた。しかし何よりも綱紀を驚かせたのは、彼の両目を大きくぐるりと囲うように縁取る、黒い刺青だった。男の伏せた瞼がぱちりと開かれたときに覗いた、血のように紅い瞳で合点がいく。これこそはあの闇の王が彼の身へと直に授けた、謂わば鮮烈な誓いの証そのものなのだと。
「……奴気に入りの眷属へ成ると、まず瞳が紅くなる。さらに正式な配下、騎士と呼ばれるものに成ればこの通り、目元が派手な黒痣で縁取られ、虹彩にも金が混ざる。 ……妖人をさんざん斬ってきた俺自身が妖に成るとは、運命とは存外数奇なものだ」
「……でも人斬さんにとって、それはまさに良縁だったわけですね」
 綱紀の真っ直ぐな物言いに、人斬と呼ばれる男は少しだけ驚いた顔をする。だが結局、彼はその言葉をどれ一つとして否定しようとはしなかった。けれども慣れた手付きで己の仮面を付け直し、一度大きく咳払いをすると、男はまるで小さい子供でも脅し付けるように低い声で言った。
「……あれの次の狙いはお前だぞ」
「どうも、そうらしいですね」
 投げられた鋭い視線が、けれどもこちらの身を純粋に案じているのはすでに明らかだった。
「……光栄の至りですわ」
 そう言って、今度こそ綱紀は心からふてぶてしく笑ってみせる。もはやいくら冬を前に吹く冷たい秋風といえど、この身体を芯から震わせるほどの力はどこにも無い。それほどまでに他ならぬ、かの王に見初められたという事実は、綱紀の空白が目立つ心のうちを、確かな自尊心で満たしていた。
 こちらの胡乱な様子に、人斬がさらに考えを追求しようと口を開いた、そのときだ。まるで空間そのものごと上下に激しく揺さぶられるような不快な感覚が刹那、綱紀の身体の中を雷のように駆け抜けて行った。気付けば頭上の晴れ空は急激な雨雲となり、ミヤコ市一帯を重苦しい灰色で包む。
「……妖の気配だ、近いぞ」
「この感じまさか……っ、また結界が破られたんか!?」
 降り出した雨の勢いは地面を叩くように強く、通りを歩く人影はみるみるうちに消える。自分が居たにも関わらずやすやすと結界が破られた事実に、綱紀は堪らず舌打ちした。が、それよりも早く、人斬が己の腰に差した刀を鞘から抜いた。
 一閃。人目を気にして慌てて止めるまでもない。彼は実際に目で捉えた獲物の胴体を、見事に斬り落としていた。絶命した魔物の亡骸に視線を落とす自分に向かって、妖狩りを生業とする男は短く吼える。
「ここは任せて征け、帝都の守護者よ」
 人在らざる者へ成ってなお、男は己自身と同じく、人在らざる者こそをその手で屠る。けれども矛盾を宿す彼のその義がひときわ清く美しいことを、綱紀はすでに心の底から理解していた。
 これも因果なのだろうか。己の精神を集中させて一本の翠の糸を辿れば、その全ての氣がミヤコ市の中心部から発せられているのが分かる。その場を人斬に任せた綱紀は、何か運命めいたものを感じながら五角堂へとひた走った。
(……違うやろ、御堂綱紀!)
 そう、これは運命などと便利な言葉で片付けて良い話では無いはずだ。どれほど大粒の雨に打たれようと、もろともせず進む綱紀の拳の内側にはいつかの日、確かに握り締めたはずの強い覚悟があった。
「選んだのは、オレ自身の意思や……!」




***




 五角堂の社の内側に入った途端、綱紀の目に入って来たのは、四体のクグツ達が大型の魔物相手に苦戦を強いられる姿だった。
「っ、ムサシ、スクネ、ボウ、コマチ! みんな大丈夫か!?」
「綱紀っ、結界が……!」
「分かっとる! すぐにでもこの場を浄化して、四方全部の結界を張り直す!」
「違うのだ綱紀! これはお前を誘い出す為の罠、敵の狙いは最初から其方だ!」
 必死の様相で警告を発したムサシの型が、魔物の重い一撃によって崩される。前衛である彼とスクネの両方が瓦解すれば、すぐ後ろに控える後衛の二人も危ない。危機に瀕する彼らに合流しようと、綱紀はすぐさまポケットの中に隠していた小刀を構えた。だが、クグツ達へと繋がる道をちょうど遮るかのように、一人の男が眼前へと立ちはだかる。短く切り揃えた白い髪、そして皺一つ無い黒いスーツ。何より、木造建築である堂内においても、光源でもあるように明るさを保つ翠色の瞳には、嫌でも見覚えがある。
「……また天界ゆかりの人間か。あの男を倒したところで、どうせ次の男が来るだけやろうっていう自分の考えは、どうやら正しかったようやね」
 目の前の男はどうやら、そもそもこちらと会話をするつもりがないらしい。屋内においても異様な明るさを放つその瞳が、綱紀の姿を目に収め、満足そうにすうっと細められた。まるでこちらを値踏みするかのような不気味な視線をじっと向けられて、否応にも敵への警戒心が跳ね上がる。しかし意外にも、男はただ黙したまま動かない。一刻も早くムサシ達の援護に向かいたいところだが、男の何か良からぬ熱にでも浮かされたような両眼を見ていると、どうにも本能的な怖気がして膠着状態から上手く脱する事が出来ない。
 じりじりと詰まる間合いに対し、しかし不意をついて先に大きく一歩を踏み込んだのは、不運にも敵である男の方だった。以前の戦闘でさんざん辛酸を嘗めた素手による攻撃を備えるあまり、仕掛けられた足技への反応が一瞬だけ遅れてしまう。
「……っ、くそ……!」
 固い床へと仰向けに倒れ込んだ綱紀に、男は無言のまま覆い被さる。爛々と輝く翠色の視線が、己の目の鼻の先まで近付く。そのまま、綱紀の体の上に馬乗りになった男は興奮を隠そうともせず、白い両手の先を伸ばしてこちらの首を掴んだ。
「っ、ぐっ、あっ……」
 一切の加減無しに気道を圧迫され、綱紀の口から苦悶の声が漏れる。男の掌から逃れようと、咄嗟に手にした小刀を眼前の腕に突き刺すが、残念ながら相手の込める力に変わりは無い。それどころか、至近距離で覗く翠の瞳のなかには、恍惚にも似た強い喜色が浮かんでいる。
「くっ……あ、っ」
 酸欠で視界が歪む。不気味な翠の双眸は、なおもこちらに迫ってくる。今や手にした小刀の柄を掴む力すら、満足には残っていない。自分はここまでなのだろうか。綱紀の脳裏に、漠然とした諦観が押し寄せて来ていた。
 あれだけ自分がミヤコ市を守ると意気込んだくせに、結局はこの体たらくだ。あの日を境に居なくなった大切な家族達は、未だ誰ひとりとして広い屋敷に帰らぬまま。それどころか、今まさに残された家族すらも、この手から奪われようとしている。今日という一日だけであんなに多くの酷い言葉を浴びせたというのに、いち早く結界の異変を察知して駆けつけてくれたクグツ達。自分は彼らにまだきちんとした謝罪すら出来ていない。また、己を信じて後を託してくれた妖斬りの彼にも、これでは到底報いたとは言えないだろう。
(……ああ、そういえば今回の一件、事の始まりはあの人やったな)
 尊大で、自信家で、人の抱える葛藤を恐ろしいほどよく見抜き、相手が悩みと向き合うさまをいかにも愉しげに眺めていた、あの男。ヨミから来たという、自称闇の王。けれど自らを人斬と名乗る男の口から聞いたかの吸血鬼には、難のある人柄を知ってなお、それを上回る不思議な魅力があるように思われた。
(……あの人にもずいぶん、何や子供みたいな酷い八つ当たりをしてしもたわ)
 今にも閉じそうな視界の端が、いよいよもって暗く薄れていく。曖昧な意識のなかで幾ら必死にもがこうと、もはやまともな力も入らないこの手のひらでは、敵に小さな傷痕すら残すことは叶わない。
 人は案外、簡単に死ぬ。その当たり前の事実を決して軽んじていたつもりは無かった。だが何にせよ、どうやら自分はここまでのようだ。どのみちこれで終わりというなら、せめて今、最期に呼んでおきたい名前があった。
「っ、とうさん、かあ、さま、とも、こ……」
 いっそ惨めに思えるほど、それはかすれた小さな声だった。とうに限界を迎えた体が、反射的に綱紀の両目から涙を溢す。こうも自身の最期となる日が早いならもっと、もっと沢山のことを変な意地など張らずに実際やってみればよかった。
「シウ、グナス、っ、さん……」
 綱紀が今日知ったばかりの彼の名前を呼んだのは、半ば無意識によるものだった。嗄れた声は何処にも行かず、ただ虚空へと消える。残念ながらもうこれ以上は、たとえ指の一本すらまともに動かせそうにない。誰がどう見ても完全な投了だった。当人すら肩透かしを食らうような、いかにも呆気ない幕引きだ。だがしかし綱紀はそのまさか、誰が見ても打ち捨てにしか思えなかった、他ならぬただその一手によって生かされる事となる。

「……まったく、随分と出番を待ちわびたぞ、御堂綱紀」
 それはこの場にまるでそぐわぬ、余裕に満ち溢れた高らかな声だった。
「我がそもそも不死であり、人より長目に見る気持ちを持たなければ、お前は今ここで死んでいた」
 透けるような銀の髪、血のように濡れた紅い瞳。そして昼間とは打って変わって、初めて出逢ったときと同じ、彼の為だけに仕立てられただろう白色を基調とした、華やかで洗練された衣装。かろうじて視線の先を声のする側へと向ければ、そこにはヨミから来たという、優美なる客人が立っていた。
 不可思議なことにこの一瞬、敵味方に関わらずこの場に集った全ての者が、かの王の言葉に決して口を挟まず、ただ静かに拝聴していた。堂内の空気を容易く掌握した麗しき吸血鬼は、己の不遜さを微塵も隠さぬまま、一歩、また一歩と綱紀の傍まで近付いて来る。
「……が、君は最後の最後、死の際においてこの私を求めた。その素直さに免じて、後の全てはこちらで引き受ける事にしよう」
 ふいに、風の流れが変わった。元より、外から吹けるこがらしなど到底届きもしないこの場所で、けれども今、世界に在るべき事象の流れが、まるで過ぎ去る季節のように脆く移ろいだ。
「さぁ来るがいい、不粋なる者よ。お前達がありがたげに説く世の理とやらが、この私を前にはただの瑣末に過ぎない事を、存分にその身体へと教え込んでやろう」
 あとほんの数秒さえあれば、綱紀の命を確実に奪えただろう天界からの使者は、しかしシウグナスに煽られるがまま、怒りに飲まれた猪のように彼に向かって直進していく。長らく塞がれていた気道が突然開かれて咽せる自分を蚊帳の外に、男と吸血鬼は広い堂の中を演者のように踊ってみせる。小剣を構えるシウグナスの身のこなしは軽く、それでいてその切先は一度たりとも狙った部位を重く突き、断じて的を外さない。その優雅な所作が綱紀にはまるで、彼が銀幕の舞台に主役として選ばれ、観客に望まれるがまま、高く舞っているかのように思われた。
「下らぬ端役よ覚えておけ、我こそが闇の王だ」
 綱紀が瀕死の間際に突き立てた小刀を天界の男の腕から素早く奪い取って、シウグナスはその刃を敵の首筋に深く刺し入れ、それからもう一度だけ引き抜いた。
 終焉だ。そう短く呟いた吸血鬼の声は、すでに敵の耳元には届いていないだろう。己を苦しめた天界の男はここにあっけなく事切れ、そして床に倒れた。その瞳から一切の光が消滅するのを待って、綱紀はようやく長い溜息を吐く。どうやら男の支配を離れた魔物達もまた、みな一斉に消失したようだ。

「すみません、助かりま……」
「……ところで綱紀よ、名誉ある我が騎士の徴を勲する方法は無論、知っているな?」
 不意にこちらへと注がれた視線は、闇の深淵の入り口のように昏く、それでいてぎらぎらと持て余すような期待で滲んでいた。相変わらず絶対の自負を感じさせるその物言いのなかに、けれども綱紀はふいに不吉な色を感じ取る。
「君が選ぶ最善の判断を、ただ私は信じよう」
 滔々と告げた美しき吸血鬼は、そう台詞を最後まで言い終わると、ゆっくりと己自身の目蓋を閉じる。そのまま、彼は右手に未だ握ったままの小刀の刀身を、あろうことか自身の首にぴたりと押し当てた。
「っ、やめ……!」
 そして次の瞬間、綱紀の制止の声も虚しく、彼は一切躊躇う素振りも見せないまま、その薄い刃先で己の肌をひとすじに斬り裂いた。真新しい鮮血がシウグナスの着る上等な衣服に飛び散り、しかしそれ以上に、晒された首元からの大量の止まらぬ失血に、見ているこちらの顔色までもが真っ青になる。闇の王の体はそのまま仰向けに床へと倒れ込み、それから二度と動く気配がない。
「っ、シウグナスさん……!」
 綱紀は弾かれたように、闇の王の上半身を咄嗟に抱き上げる。だが傷口からみるみる流れ出る血の量の多さを前にして、嫌でも思考が硬直してしまう。彼を救うために例えどんな手段を取るにせよ、使える時間は現時点で、すでにひどく限られていた。
 シウグナスの均等に揃った長く重たそうなまつげは、ただ静かに伏せられたまま。そこだけを見れば、彼はまるで深く眠っているかのようにさえ思える。だが現実には断じてそうではなかった。自身のすぐ眼前で目まぐるしく巻き起こる惨状に焦りで血の気が引いていくのは、むしろ綱紀の方ばかりである。
 君が選ぶ最善の判断を、ただ私は信じよう。
 なんて身勝手な男なのだろうと、綱紀は憤りたくなった。闇の王とはすなわち、吸血鬼であるとともに、不死の存在でもあるはず。彼の言葉を疑わずに信じるなら、今ここで自分が何もせずに放っておいても、彼は決して死なないということになる。
 だというのに綱紀は今、数多ある連接世界の誰よりも一途に、シウグナスの無事の生還を望んでいた。その切実な思いのなかには、自身が御堂家の一員であることも、翠の波動の持ち主であることも、そんなもっともらしい理屈は一切関係無かった。ただ単純に、この男にまだ死んで欲しくない。そんなある意味で祈りとも言い換えられる真っ直ぐな願いは、しかしだからこそ、さまざまなしがらみに囚われた綱紀に、至ってシンプルな行動を決断させた。
「……っ」
 そもそもの前提として、人間という凡庸な種族が、永久の命を約束された吸血鬼より、騎士などと大層な徴と称号を賜る、その具体的な手段とは何だろうか。昼間に出会った人斬との会話を思い出せば、その答えはきっとあちこちに散りばめられていた。吸血鬼、つまりは人在らざる者に自らも近付く為には、やはり彼の内に流れるその高貴な血の滴を飲み干し、不死という唯一無二の力の一端をじきじきに体に授かるのだろう。まさかあの無口な彼は、近くこうなる事まで予期していたのだろうか。

「……それこそ、どう考えたってこれは自分事やろ。なあ、御堂綱紀」
 やがて綱紀は覚悟を決めると、己の唇の先端をシウグナスの血に塗れた首筋へと静かに沿わせた。こうしてその肌に直接触れてみれば、彼の心臓が未だ止まらずにとくとくと小さく脈打っているのがよく解る。
 こんな馬鹿げた手段を用いれば、自分はもう今の生活を続ける事が叶わなくなる。その事実が分かっていてなお、それでも僅かな間を置いて、綱紀は眼前の白い柔肌にそっと己の前歯を突き立てた。
 自らの意思で吸い出し口にした緋色の血液は、まるで甘く熟れた柘榴の果実のようだった。綱紀は注意深く丹念に少ない滴を咥内まで含んでは、それを己の喉奥へとゆっくり流し込む事を繰り返す。もう十分だろうと行為を切り上げたところで、今度は自身の服の袖を捲り、剥き出しの腕をシウグナスの口元まで持っていく。
「……覆水盆に帰らず、これでもう二度と自分は元の生活には戻られへん……けど」
 すぐ目の前に差し出された新鮮な食事にでも反応するように、支えていたたおやかな体がぴくりと動く。やがて探るように押し当てられたかさつく唇が二つに割れ、中から這い出した無遠慮な舌が、獲物の位置を正しく把握するように綱紀の肌の表面を舐る。
「不思議やね、今のオレはそれ以上に……わくわくしとるんや」
 そしてついに、人間のものとは明らかに違う尖った犬歯が、綱紀の腕の皮膚をいとも容易く食い破った。本人ですらその自覚が無かったが、この時すでに綱紀の体は闇の王の気に召す眷属を超えたその先の、栄えある騎士の階級にまで目まぐるしく変質している最中だった。より吸血鬼に近い存在へと生まれ変わったその血は、だからこそシウグナスにとって何よりの馳走に値する。死の淵で一人うたた寝をしていた闇の王はついにこの時をもって、長らく欲した異界の青年を自身の新たな血族として迎えるに至ったのである。
「……おはよう、シウグナスさん」
 やがて、昏々眠っていた彼がようやくその長いまつげを再びゆっくりと上げる。かの吸血鬼がつかの間の微睡みから目醒め、最初に見たもの。それは両の眼から特徴的な薄い萌葱をすっかり溢れ落とした、元ミヤコ市の守護者であった青年。すなわち、己自身の寵愛する騎士と成り、瞳の虹彩を金と紅の二色に染めた、御堂綱紀の姿だった。
「ちょっとばかし、寝ぼすけ過ぎやしませんか」




***




「……おい、妖」
 聖堂が守る最奥、連接世界に繋がる扉である天乃岩戸を目前にして、ふいにシウグナスは隣を歩く人斬に声をかけられた。自身の先を行く青年とその家族の様子にちらと目を向けてから、闇の王は鷹揚に己の騎士の一柱である彼に発言を許した。
「……今回の都での旅路、結局のところ何処までが貴様の思惑の範疇であったのだ」
「お前にしては珍しく、人聞きの悪い言い方をする、人斬よ。まさかとは思うが、あの青年の為に怒っているのか?」
 その性格上、人斬という男は滅多に自身の感情を表には出さない。しかし自分達がこのミヤコ市を再訪してからというもの、どうにも常にその声音には静かな怒気が宿っているように思える。あと数刻もしないうちにこの世界を去るただの道半ばの旅人に対して、けれども、だからこそこの男は本心から義憤を感じているのかもしれなかった。彼が己の過去を語る際よく口にする帝とやらは、どうやらよほどこの世界において良き王であったようだ。
「……この古都に到着した直後、俺達と共に外から入り込んだ天界の者とやらを見逃したのも、今思えばわざとだろう」
「そう穿るな。あのような男一人、どのように動こうと、我にとっては取るに足りない些事に過ぎなかったというだけだ」
「前回の来訪で、すでに奴がこの都を覆う四結界の破壊を目論んでいるのを知っていたのに、か?」
「……そこまで勘付いておいて、私の口から話させようとは、なかなかに意地が悪い。そもそも御堂綱紀に対し、話の筋を通せと言ったのはお前だろう、人斬?」
「俺が通せと言ったのは……いや、もういい。貴様のくだらん言葉遊びに付き合うつもりは無い」
「ふっ、己の主人相手に随分と冷たい事を言う。本当に気に入らぬというのなら、その刀で我を斬っても構わぬのだぞ?」
「……その悪辣ぶりはいずれ必ず、貴様自身を滅ぼすぞ、伯爵」
「そうだな、肝に銘じておこう」
 どうやら人斬はそれ以上の追及を諦めたようだ。シウグナスにだけ聞こえるだろう露骨な嘆息を吐くと、そういえば、と今思い出したように言葉を付け加える。
「……それで、貴様はどうしてあの帝に連なる者を己の身で得ようと考えたのだ?」
 男の率直な物言いに、闇の王は微かに笑みを深くする。いよいよ天乃岩戸を前に立ち、各々の思いに耽る新たな旅の友連れの面々を眺め、シウグナスはふと昔噺でも語って聴かせるように話し始めた。
「……単純な話だ。かつてこの国を興したとされる大神は、人の世をあまねく照らすただその役割の為だけに、自ら籠った岩戸の外へと連れ出される羽目になった」
 新たに自身の血族となった青年の姿を遠目に納め、ふいにシウグナスはいっとう優しげな声で説く。
「本来ならば、永劫この都を照らすはずの陽を、岩戸の向こう側に攫おうと言うのだ。その適役は黄泉より来たる我以外に、いるはずがなかろうよ」
「……そうか」
 人斬は淡々とそう返事をすると、それ以上何かを語ろうとはしなかった。だがこの場合、彼を寡黙にさせたのはその性格によるところでは無い。かの夜を纏う伯爵が、青年へと向けた双眸の光の色。そこにかつての故郷で眺めた空、その美しき薄明の兆しを見たからである。
 やがて冷たい秋風は行き、冬の閉じた季節が訪れる。今年の初雪が降る日、御堂綱紀の傍らにはきっと、番傘でもかざすように、暗くあたたかな夜の帳が下りる事だろう。そう、きっと。














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