まずは簡単なあらすじから。
もう何年も連絡すら取っていなかった主人公の弟が、他人のふりをしてわざと走行する自転車の前に突っ込んで来て、怪我を理由に兄が管理人を務める下宿の新しい入居者として引っ越して来るところから、二人の不思議な交流が始まる。
その下宿「すみれ荘」には、主人公である一悟の他にも、元々あと三人の入居者がいて、それぞれが慎ましやかな日々を送っていた。
そんな彼らに一悟の弟である芥が介入する事で、今まで見えていなかった住人達の別の顔が露わになっていく。大体そんな話です。
主人公である一悟が、あまり現実味のない度を超えたお人好しで、そのおかげで周囲の皆もだいぶ救われるんだけど、彼の過ぎた優しさのせいで逆におかしくなる人もいる、というのが話の主軸なのかな。
他にも、一悟と芥の仲の良さを変に勘繰られて二人が恋人扱いされたりと、作者がBL畑出身なのは読んでいてもはっきりと分かった。大きすぎる兄弟愛、それを周囲が茶化したり関係を勘違いする、歳の差、主人公の筋金入りの純朴さ、等など。最初からそれを含めて購入を決めたので、私自身はそういうものだと納得出来たけれど、BLを匂わせる描写が少しでも苦手だという人には本作はおすすめしません。
個人的にはPMSに苦しむ美寿々がちっとも他人事のようには思えなくて心配だった。一ヶ月のほとんどを辛い症状でめちゃくちゃにされて、さらに自分自身ですら制御出来ないさまざまな痛みを、本当の意味できちんと理解してくれる人はひとりもいない。
分かるなあ、と感じた。私は用意された選択肢の中で症状を抑えられた側なので、特に美寿々の事を思うと辛かった。
他にも現代社会あるあるをテーマにした展開が大小問わず、あちこちに組み込まれていた。
しかし物語が進むにつれ、本作はどんどん雲行きが怪しくなっていく。
最初こそ令和世代の苦しみが題材だったはずの本作は、人の生死に関わる事件に軸を変えて一気に動き出す。
一悟と芥、それに青子の抱える秘密が徐々に明かされる後半では、先の展開が気になり過ぎてページを捲る手を止まらなかった。もっとゆっくりと読了するつもりが、気付けば文庫を買った当日の夜には、あっという間に読破してしまった。登場人物達の人間模様が最終的にいったいどんな場所におさまるのか、それが読書最大のモチベーションになっていた。最初こそ見方を穿ってしまったが、今この著者が世間で大人気の理由が分かる。単純に小説の構成が巧い。初めこそ不純な気持ちもあったが、この小説は話としてとても面白い。
青子に関する物語は特に強烈だった。
一悟の亡き妻の姉という立ち位置と、彼女特製のハーブティーや贈られる花の意味を考えると、何となく早い段階からその行為に疑念を持ってはいた。けれど分かってはいても、現実に彼女の秘密が明かされるとぞっとした。そこまでするのはゲームのラスボスくらいだよ!とびっくりした。すごく怖かった。
人ひとりに向ける感情にしては、青子の執着はあまりに大き過ぎて気持ち悪く不健全だ。しかも彼女自身はそれを愛情だと思っている。やっぱり怖すぎる。
芥が言った、貴女のそれは一悟という人を見下しているんだよという感想が、実に的確に感じられた。青子の一悟を執着する最大の理由、この人ならこんな私でも一緒に居ていいんだ、という思考は本当に最悪だ。それは無関係な他人を自己肯定力の低い自分の潜む遥か下側のラインまで、無理矢理に引き摺り落とす行為だ。嫌い。追い詰められた青子がまだ幼い一悟の娘を利用して彼との無理心中を図ったのも最低。さらに事件後に敢えて自白して、一悟の娘を犯罪の手段に使った事をわざと説明したのも人として終わっている。彼女だけは法で厳格に裁かれるべきなのに、一悟の意向もあって野に放たれたままなのは、流石に駄目だろうと思った。
でも青子というラスボスがいたおかげで本作のストーリーが頭一つ抜けて面白くなったのは確か。彼女の暴走をきっかけに一悟は弟の芥ともお互いに正しく理解し合えたし、面会すら叶わなかったひとり娘ともまた会えるようになった。物語はとりあえずハッピーエンドだ。……いや、それでもやっぱり青子は許したくないな。恐ろしいから。
本編のその後を描いた『表面張力』は、作者自身があとがきにも書いている通り、エピソードにせよ文章の書き方にせよ、随分と毛色が違う。私個人としてはあまり刺さらなかったな……。今後作者の他作品を読みたいかと言われると、悩むところかなというのが本音。
でも本作のジェットコースター的な展開は普通に面白かったです。
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