ゼノブレイド3
レクシュル(エイシュル前提)
「人の心を失った機械なんて、所詮はそんなもんだろ」
事の始まりにマシューが聞いた言葉は、確かそれだった。場所はコロニー9、その司令室。今日、午前の空は少し曇っていた。
監獄島の頭上高く、オリジンにて待つというアルファへと至るまで、その道程を改めて仲間達と確認し合っていたときだ。明朗快活なレックスにしては苦々しい、その吐き捨てるような口振りが妙に印象的で、だからふいに皆が手を止め、彼の方を見たのだ。
「……君はプネウマやロゴスを目の前にしても、そんな言い方をするのか?」
そのすぐ後に聞いたのは、怒りの感情を理性で律したような低い声だった。あまりに凄みのある声色だったので、最初それがあのシュルクの口から発せられたのだと、自分では瞬時に分からないほどだった。
「こら、シュルク。ボクのことなら別にいい。本当に気にしていないし、それにレックスだって、悪気があって言ったわけじゃない」
刹那、完全に凍てついた場の空気にすぐさま割り込んだのは、意外にも隣に居たエイだった。レックスに険しい視線を投げるシュルクをまるで窘めるかのように、彼女は静かに言う。けれど零した言葉とは裏腹に、彼女の声音の節々にはシュルクの心境を労わるような、そんな優しい響きがある。
その場に、しばしの沈黙が流れた。司令室の外からは変わらず、各々の作業に精を出す仲間達の生活音が聞こえてくる。人と人とが作り出す、そのがやがやとした喧騒は、けれどそこに住む者達がつかの間といえど、平穏を享受している何よりの証だ。やや間があって、先に剣呑な雰囲気を解いたのはシュルクの方だった。
「……棘のある言い方をして悪かった、レックス。そもそもの世界の前提が違うことは、頭ではもう解っているんだ。だけど……」
「……いや、シュルクの言う通りだ。俺の方こそ、お前らの前なのに軽率な言動だった。……すまん」
こうして、突如としてここからはるか北に広がる雪原に近付いた司令室の気温は、発端となった本人達が互いに頭を下げたことで間一髪、雪解けるまでに至った。その様子を見たエイもまた、どこかほっとしたように胸を撫で下ろしている。
(……心底、意外というか、何というか)
初めて出会ったときからずっと、レックスとシュルクの二人はとても仲が良さそうだった。実際、野営での歓談の様子を近くで眺めていれば分かる。普段から空気を読めとカギロイに何度もなじられるマシューですら、あまりに親しげな二人の間に割って入ることは、躊躇する日があるくらいだった。
だからこんなふうに、いっとう特別な戦友であろう二人でも、たまには言い争うことがあるのだと。今まで知る機会のなかった仲間の新たな一面を知り、マシューは純粋に驚いたのだ。
そして、あくまでこの話はこれを区切りに終わるものだと、お腹を空かして食堂へ向かったマシューはそのとき、本気で思い込んでいた。
「……俺ってばもしかして、ちょっとばかり性格が楽観的だったりする?」
「おいっ、何を暢気に今更な話をしているんだ、マシュー! いいから早く2人を止めてくれ! 喧嘩の仲裁は君の趣味だろう!」
「趣味じゃねえし、得意分野だし! それにもう今日から得意だって言い張るのもやめるつもりだよ! っ、ああもうっ、くそ!」
注文したカレーを食べ終わり、すっかりご満悦だったマシューの耳に、リーダーの2人が! とつんざく悲鳴のような声が聞こえてきたのは、午後を少し過ぎた頃だ。遠くの空はやけに陰り、今にも一雨ありそうな灰色をしていた。
走って現場に駆けつけてみれば、もはや全てが大惨事だった。会議用に置かれた司令室の机と椅子はひっくり返され、ボードも備品も大体のものは壁際で倒れている。机上に行儀よく積まれていた書類は床のあちこちに散乱し、コンテナの一部は中身が飛び出していた。立場上、真っ先に止めに入ったであろうパナセアとリンカですら、もはや師である2人の繰り広げる乱闘を、ただ青い顔でおろおろと眺めるばかりだ。
目下、最大の問題であるシュルクとレックスは、しかし司令室のど真ん中で、なおも止まってはくれない。何があったと声をかける間もなく、シュルクは己の義手を通した右手で、レックスの頬を殴る。レックスもまた、まともにその拳を受けながら、一歩も怯まない。お返しとばかりにシュルクの長い髪先を思いきり掴んだかと思えば、そのまま引き寄せた相手の額を頭突く。
見れば見るほど惨憺たる現場だ。こんなにも酷い喧嘩は、この世界においてもあまり多く見られるものではないだろう。
「っ、おい! 何があったか知らないが、シュルクもレックスもやり過ぎだ、やめろ!」
初めはずいぶんと面食らったが、しかし目撃してしまったからには、マシューとしてもこれ以上は見過ごせない。慌てて、互いの身体を引き離すように、彼らの肩の片方ずつに手を置くが、ヒートアップした二人はマシューの方を見ようとすらしない。それどころか、喧嘩の邪魔だとばかりに、無言のままどんと突き放される。
「っ、この……!」
紳士的とは到底言いがたい2人の応対に、さすがのマシューもカチンときた。そちらがそういう態度でくるならと、ついに鼻を鳴らしたときだった。
「シュルク! レックス! 2人とも一体何をしているんだ! ここがリベレイターの、君達の為の司令室だと、ちゃんと理解した上でなお、こんなことをしているのか!?」
遅れて到着したエイが、来て早々ぴしゃりと告げる。二人がかりの鋭い瞳を一身に浴びた彼女は、しかしそれでも怯まない。その知の宿るまなこを見たレックスは、やがて煩わしそうに舌打ちしてからぼやく。
「……どうもこうも、先に手を出してきたのはシュルクだ。俺はその売られた喧嘩を買ってやっただけだぜ」
「……そして、先に僕を怒らせるような真似をしたのはレックスだ。朝と同じさ、どうやら今日のレックスは、よほど僕の拳をご所望らしい」
レックスが切れた口の端の血を、手の甲で荒く拭う。マシューにはどうにも、レックスが苛立つというより殺気立っているように思えた。シュルクにしてもそれは同じで、眉間に寄った皺は相当に険しい。けれども、このままでは埒が明かないと分かったのか、渋々といった様子でエイに端的に状況を説明する。
「……ウーシアの存在自体が今回のトラブルの発端だと、レックスは言った」
「だって実際にそうだろ、あいつは……」
「誰が何と言おうと、アルヴィースは僕の友人だ! いくらレックスだろうと、僕の友人を悪く言うのは許さない!」
「他ならぬそのアルファが、お前の右腕を奪ったんだろうがっ! あいつは敵だ! 何度言えば分かる!? お前の友達のアルヴィースとやらは、もうこの世界には居ない!」
残念ながら、まともな会話が成り立ったのはそこまでだった。次の瞬間、言葉通りレックスに真っ向から食ってかかったシュルクが、彼を無理やり床に押し倒して、再度その拳を振り上げたからだ。
こうして、話は冒頭に戻る。殴る、蹴るを幾度も繰り返す2人を、マシューは必死に止めた。隣にいたエイもそれは同じだった。だがそうまでしても、シュルクとレックスを自分達は一向に止められない。とうとう万策尽きたマシューは、なかばやけくそ気味に叫んだ。
「そんなに喧嘩がしたいなら、せめて周りの邪魔にならない場所でしろ! 見届け人は俺がやってやる!」
ともすれば、コロニー9全域に轟いただろうその台詞は、しかし意外なことに、真っ当な意見として現実に採用される運びとなった。肌がひりつくような怒気を纏いながら、シュルクとレックスは互いに無言でぐちゃぐちゃになった司令室を片付け、移動する。その足取りは、先程までとは打って変わって、不気味なほど静かだ。今更にマシューは自らの考えなしな発言を反省する。
「……やらせてやれ、マシュー」
物事の大半を理知で判断するエイにしては珍しい、目に見えて感情論から出た意見だった。
「いや、そうは言うけどな……」
「……そもそも、リベレイターという組織はリーダーであるシュルクとレックス、二人を絶対の御旗とすることで成立している。ケヴェスにもアグヌスにも与さぬ、第三勢力として活動する彼ら構成員にとっては、いわば二人の存在こそがキャッスルにおける女王のようなもの。仲間達の心中を察するなら当然、二柱たる互いの不仲を疑うような言動は、今まで例えどれほど些細なことであっても見せられなかっただろう」
「……だとしたら、何で今になってこんな派手に喧嘩すんだよ」
口を尖らせてそう告げると、エイはほんの少しだけ笑って言った。
「それはマシュー、君がいるからだろう」
「はぁ!? 俺のせいってこと!?」
「……君のその、人の機微に対する鈍感さだけは、本当にどうにもならないな」
「なんだよそれ。俺にはエイの話の方がよく分かんねえ」
なおも躊躇う素ぶりを見せるマシューを強引に促すように、彼女ははっきりと口にする。
「彼ら二人にとって、これは必要な通過点なんだ」
まるで未来予知でもしているような口ぶりで、エイは言葉を紡ぐ。マシューにも聞き覚えがある。それはいつかのカギロイへ向けて、彼女が滔々と述べた台詞のようだった。
この先の展開、視えてるんだろ。喉元からぽろりと溢れそうになった言葉を、けれどすんでのところでマシューは心の内に留めた。前方を行くシュルク達を眺めるエイの眼差しがまるで見知らぬ人のように柔らかく、そのことを指摘するのはさすがに野暮だと悟ったのだ。
「……なら、さっさと二人がドンパチしても被害が出ないところまで場所を移そうぜ」
その場全員の視線が集中するなか、マシューがさも妙案とばかりに進言する。
「試合場所はゲトリクス神託跡地、あそこでいいよな?」
***
「それじゃあ二人とも、準備はいいな。試合……」
開始、とマシューが口にしたとき、既に中央では巨大な激突が発生していた。熟練の境地にある剣気を纏った一太刀同士が、遠慮無しに互いを弾くと、それはさながら戦場での爆風のような強い衝撃を生むのだと、マシューはそこで初めて知った。じりじりと光を帯びるブレイドの、刀身同士が鍔迫る音。そして、これ以上拮抗した場に進退はないと理解した両者による、焦れた後退。早々に身を翻し、すぐさま二振り分の連撃を繰り出したのはレックスの方だ。その切替の早さは流石アタッカーと呼べる。休む手の存在しない勢いは、まさに怒涛と称すべきものだった。攻守素早い盤面を見るに、始まったばかりのこの戦闘訓練という名目の喧嘩は案外、あっさりと終結するのではないか。マシューはそんな軽い気持ちでたかを括る。
が、しかし、その決して弛まざる破竹とでも呼ぶべきレックスの勢いは、ふいにシュルクがその身をさらに一歩前進させたことで、簡単に挫かれる。たった一歩分、敵に向かって踏み込んだ、ただそれだけ。だがその所作を見て、今は暢気な観客の身分でしかないマシューは思わずぞっとする。もし戦場で自分がたった今のシュルクと同じ芸当をされたらと、その最悪の想像をしてしまったからだ。
彼の行動を、ただ敵との距離を詰めたと言うだけなら簡単だ。だが実際にその行動が持つ意味合いは、近接武器同士の闘いの最中となれば大きく違ってくる。シュルクが目の前で簡単にやってのけたのは、アタッカーを真正面から相手取ったその上で、敢えて敵の有利とする間合いに自ら飛び込むという技だ。ケヴェスやアグヌスの、いや、およそまともな教練を積んだ兵士なら、己の首筋を敵に曝け出すような、こんな無茶な戦い方は絶対にしない。単純に背負うべきリスクが高すぎるからだ。しかし博打というものは元来、賭けたチップの分だけその見返りも大きい。それに、はなからシュルクはその動きを賭けなどとは考えてもいない。マシューとは置かれた前提が違う。彼にとって、その技は利にしか成り得ないのだ。
仮に立場を変えたなら。マシューが勢いよく拳を振り切ったあと、ぴたりとまるでこちらに吸い付くかのように、シュルクの青い瞳が眼前まで迫ってくる。狭い隙間を縫うように飛び込んできた体に驚き、自分は咄嗟に後方へと身を引くだろう。しかしそこはもう、彼の大剣に斬られる即死圏内だ。すなわち、例えるならば正しく死線。次の瞬間、走馬灯を見る暇すら与えられずに、マシューの命は事切れていることだろう。
「……こっっわ」
全身に冷や汗をかき、思わず首元をさする。マシューは己の悪い想像を散らすように頭を振った。
そうこうしている間にも、レックスとシュルクの、呼吸のタイミングすら忘れるような激しい攻防は続いている。普段こそ自身の命を預けるに値する、熟達した防御役を務めるシュルクの、そのイメージとかけ離れたあまりに苛烈な攻めには、さすがのマシューも多少なりと動揺せざるを得ない。
「……シュルクって、こんな向こう見ずな戦い方もするんだな。さっきからずっと、レックスが振った双剣の二撃が打ち下ろされる直後に、刃の面を叩いてまともな勢いを削いでる。ありゃあ、技術もそうだが、よほどの豪胆さもなきゃ可能な芸当じゃねえ。そもそも、普通は戦技として成立するはず無いんだ。あんなハイリスクな曲芸みたいな立ち回りは」
この世界におけるディフェンダーの基本戦術とは、それすなわち、待ちの姿勢を指す。軍で一般的に採用されるスリーマンセルであれば、なおさらのこと。盾役が敵の一撃を確実に防ぐからこそ、他のメンバーは安心して攻めに転じることが出来る。意外にも、優れた練度を持つ戦士ほど、初手は守りに徹するものだ。だからこそ、堅牢な構えを常とするシュルクが今こうして眼前で見せる、紙一重の攻めようには、実にひやひやさせられる。このある種、既視感とでも呼ぶべき感覚はまるで。
「……まあ、無鉄砲の塊のような君からすれば、当然他人事には思えないだろう。元はシュルクもマシューと同じ、生粋のアタッカーだったのだから」
「そうなのか?」
こちらの思考を見透かしたようなエイの言葉に驚き、思わず隣を見やる。自分のすぐ横側に並んだ彼女は、変わらず涼しげな視線を前方2人に向けたまま言う。
「……昔の話だよ。だがきっとシュルクのことだ。レックスと出会ってからは必然的に、自ら進んでディフェンダーを買って出たんだろう。……失くした利き腕のこともあるしね」
そう淡々と告げてシュルクを眺める横顔は、けれど何となく、深い憂いを帯びているようにも感じる。彼女の左耳で赤い飾りが意味ありげに揺れた。
最初はただ二人で始まったこの旅路も、気付けばずいぶん賑やかになった。それなのにエイは時折、今みたいな寂しい表情をする。彼女がこんなふうに鈍い自分にすら分かるほどの揺らぎを見せるのは、決まってシュルクが関わるときだ。別にその事実が悔しいというわけではない。ただ、マシューには断じて踏み込むことの出来ない大事な一線がそこにはあり、仲間はずれにされるのが面白くないだけだ。
これ以上同じ話題を続けるのは憚られ、マシューは視線を前方へと戻した。
「……そろそろ決着がつきそうだな」
エイの言葉通り、あれだけ派手に何度も響いていた剣戟の音が、だんだんと遅くなってきている。当初はシュルクばかりが握っていた優勢も、戦闘が長引けば長引くほど、今度はレックスの側を味方しているように見える。事は単純な体力の差というわけでもなさそうだ。
「勝負の分かれ目はやはり、利き腕が使えないぶん蓄積される負荷を、シュルクがいかにしてカバーするかだろうね」
「……パワーアシストがあるとはいえ、あれだけでかい得物をぶんぶん振れるやつに、今さら左手の負担もなにも関係あんのか?」
「……二人の動きをもっとよく観察してみるんだ、マシュー。この戦いが始まったときからずっと、シュルクはより多く攻めることばかりに重きを置いている。普段の彼の戦術展開を考えるなら、これはあまりにらしくない」
それは確かにそうだ。シュルクほどの守りの固さがあるなら、いくら相手があのレックスであろうと、その双刃をそれなりには凌げるはず。なのに定石であろう待ちの姿勢を捨ててまで、彼が攻勢を維持するのには、きっと大きな理由がある。
そうこう話しているうちに、今度はレックスの方から仕掛ける。当然、直撃を避けるためシュルクはその太刀筋を遮った。が、勢いに押されたシュルクがその足を止めた瞬間、狙い澄ましたかのようにレックスの猛攻が始まる。そのまま相手を押し潰すがごとく、一気に畳みかける紅と翠の二連を、シュルクは忌々しげな様子で必死に捌き留めている。例え一撃でも守りを損じれば、その時点で勝負が終わってしまう。レックスのなかば反則のような攻め手に、マシューは思わず舌を巻く。無論、その嵐とさえも形容出来る五月雨撃ちを耐え忍ぶシュルクにもだ。
「……いやそうか、俺にもやっと読めたぞ。レックスの双剣って確か、さらに一本に可変するよな? あれを真正面からまともに受けたら、さすがのシュルクもそう何度も保たない。だから大きく振りかぶる隙を与えないために敢えてぐいぐい行って、短期決戦を狙ったのか」
「より正確に分析するなら、シュルクは単に戦闘時間を短縮しようとしたわけじゃない。卓越したディフェンダーである彼の一撃にだって、十分な重さはある。常に先手を譲らないことで、シュルクはレックスに回避行動を強制したんだ。ただ剣を薙ぐのと、そこに攻撃を避ける動作を一つ組み込むのとでは、残る体力にも徐々に大きな差が出てくる。そしてその差はいずれ、決定的な隙を生む」
「けど、そうまでしても結局レックスの方が試合で押し勝つってのは、ちょっとずるい気がするなあ」
「それだけ、レックスが秀でたアタッカーであるという証左だ。彼が味方である幸運を喜ぼう」
「うーん、このままストレートに勝敗も決まるか? でもなんか、こう……」
「……君にしてはずいぶん物言いがはっきりしないな、マシュー」
「いや、特大の一撃を狙ってるってんなら、それはシュルクの方も同じなんじゃねぇかな、ってさ」
なかなか折れないシュルクの粘りに焦れたのか、レックスは一度距離を取るように後方へと跳んだ。そのまま手早く自身の手甲に装着したアンカーを射出すると、それをシュルクの右腕、機械仕掛けの義手の関節駆動部に向かって巻き付ける。気合の入った掛け声と共に、レックスが力任せにワイヤーを手繰り寄せれば、不意のことにシュルクの体躯が大きくぐらついた。
今度ばかりは勝負あり。レックスは即座に武器を可変させ、翠玉色の巨剣の柄を強く握る。そのまま、大きく振り上げた剣を真っ直ぐ地面に撃ち下ろそうとした。……しかし。
「は……?」
マシューの口から、思わず素っ頓狂な声が漏れる。完全なトドメとなっただろうはずの一撃は、けれども最後まで振り抜くことかなわない。最後の瞬間、あろうことかシュルクは、己の義手を根元部分から切り離したのだ。
まただ。敵に自ら首元を晒したときと同じ。彼のその行為には、躊躇という恐怖感情が微塵も含まれてはいなかったように見えた。
過酷な戦場で短い命を散らすことを前提にデザインされたケヴェスとアグヌスの両軍とは違い、シティーの人間は平均10年以上続く寿命を出来るだけ長く全うしようとする。だが人は長く生きる、ただそれだけで身体のあちこちに支障をきたすものだ。だからこそ、シティーでは日夜、医療分野の向上を目指すべく、ずっと苦心してきた。当然、そのなかにはシュルクの義手のように、身体機能を補う技術に関するものもある。おそらく現時点ですでに、リベレイターという組織が有する機械への造詣は、今は亡きマシューの故郷であるシティーよりも深い。しかしその秀でた力をもってしても、シュルクの扱うような義手は性能が高度であればこそ、相当に神経系への負荷がかかるはずだった。例えそこに痛覚がなくとも、彼の体を思うなら、仲間としてその行為は決して推奨出来ない。だが、それら全てを許容したうえで、敢えて全てに目をつぶり、シュルクは迷わず己の義手をパージしてみせたのだ。
たかが喧嘩で、そこまでやる必要があるのか。脳裏に浮かんだ台詞は確かに、マシューにとっては嘘偽らざる本心だった。だが渦中の二人にとっては最初から、これはそこまでする価値のある戦いなのだ。
今、彼らは別に、実際の戦場で命のやり取りをしているわけではない。けれどそれにしたって、互いに本気が過ぎる。
いつ大怪我をしてもおかしくない二人のぶつかり合いをまざまざと見せつけられ、マシューはいっそ、こんなことならニコルとカギロイも連れてくるべきだったと後悔した。ここに来る前、今回の審判役、ついでにもしもの場合におけるヒーラーをも買って出たエイに念押しされたのだ。ニコルとカギロイにシュルクとレックス、二人の戦いを見せるべきではないと。
なぜ彼女がそんなことを言ったのか、その理由もよく分かる。少し前、同じこの場所で子供達は持てる全てを必死に使い、ようやく目の前の大人達を破った。確かにそれは本当のことだ。だが今日の規格外の戦いぶりこそが本来の、解放者(リベレイター)を冠する彼ら二人の、混じり気のない本気なのだろう。
こんな無茶苦茶な強さを目の当たりにしたら、まず間違いなくニコルとカギロイは自分達は手加減されたのだと思い込んでしまうはずだ。そうではないといくら言葉を尽くし、説明したところで、きっと本質的には納得がいかないだろう。そんなことになれば最悪、彼らが未来へ進む活路として見出したウロボロスの力にも、影響が及ぶかもしれない。
だがやはり、とも思う。他ならぬニコルとカギロイの二人なら、目の前の彼らの戦いを未然に防ぐことも出来たのではないかと。
マシューは少しだけ怖くなる。シュルクとレックスの扱う純粋で強大な力は、その気になりさえすれば、本当にこの世界の根幹ごと書き換えられる力だ。決して2人が怖いと言いたいのではない。マシューが恐れているのはこれから先、万が一にもその力を持った者が正しい使い方をしなかったら、という話だ。それに、マシューはその大きな力の一端を、すでに自身の内にもうっすらと感じている。世界を変化し得るその力。怖いと同時に無性にわくわくする、この震えはきっと、武者震いだと信じたい。
強く引かれた慣性に従って、レックスの閉じた左目のぎりぎりを機械の腕が掠める。自身の死角となるその意表をつく投擲物を、それでも彼は持ち前の鋭い勘で紙一重に避けてみせた。が、その回避行動こそがこの盤面に幾重にも張られていた緻密な策の結実なのだと、マシューはすでに気付いていた。
一閃。シュルクの握る赤い大剣が上から下へと直線上に美しい蒼の軌道を描く。満を持してようやく放たれた必殺の一撃は、レックスの首から胴の先までを完全に通過したように見えた。
「って、おいシュルク! やり過ぎ……」
だ、と制止する声も虚しく、直撃を受けたレックスが腰からどすんと地面に尻もちをつく。いや、そもそもただの尻もちごときで済む話なのか、これは。
「……僕の勝ち、でいいよね。レックス」
リベレイターの対となる一振りを静かに見下ろしたシュルクは、彼にしては珍しく、有無を言わせぬ声色で宣言する。隣立つ相棒のそのさまを見上げたレックスは悔しそうな顔をして、けれども次の瞬間には気が抜けたように破顔した。そしてそうすることがさも当然だとでもいうように、己の左手を宙に向かって突き出し、ひらひらと振って見せる。ほんの僅かの逡巡ののち、シュルクもまた、差し出されたその手のひらを強く掴んだ。互いに無言で交わされる握手。それはまるで二人の絆に生じた綻びを、固く結び直すかのようだった。
「……って、いや、待て待て待て!」
2人の何となく良い雰囲気に流されかけたマシューが、慌てて我に返り口を挟んだ。
「シュルクが最後に振るった一撃、あれ完全にレックスの体を貫通してなかったか!? 審判役を引き受けたこっちとしては、見ててめちゃくちゃ焦ったんだが!?」
シュルクとレックス、それから自分の隣にいたエイ、3人ともが揃ってきょとんとした表情をしている。今の話のなかに、何か首を傾げるような要素があっただろうか。肝を冷やす羽目になったマシューの切実な訴えに、ややあって当人達はようやく合点がいったらしい。
ああ、なるほど。そういうことか。つい先程までの戦闘での気迫がすっかり抜け落ちた穏やかな声で、シュルクがさも簡単なことのように言う。
「僕のこの剣(モナド)は人を斬れないんだ。……基本的にね」
そんな大切なことは、あらかじめ言っておいてくれ。脱力したマシューは堪らず天を見上げる。もう時期に夕刻となる空には、戦闘前とは打って変わって、雲一つ見当たらない。
誰が見ても文句なしの、それは綺麗な快晴だった。
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